『地域戦略におけるベンチャー創出の必要性と金融システムのあり方』
北海道ベンチャーキャピタル梶@松田一敬
1. 失われた20年に終止符を打つ起業家精神
2. 米国における産学連携の状況と経済効果
3. 北海道経済の状況 − 外貨を稼ぐ産業の必要性
4. 北海道ベンチャーキャピタルの設立
5. 北海道における産学連携プロジェクト−「ITカロッツェリア構想」
6. ベンチャー創出に向けての金融システムに関する考察
1.失われた20年に終止符を打つ起業家精神
昨今の我が国経済の低迷は、大方の予想をはるかに越え、いまやバブル崩壊以降の「失われた10年」はさらに「20年」へなりつつある。一方、海の向こうのアメリカでは80年代に日本の競争力向上に危機意識を覚え、MITのヤングレポートを始めとする日本研究が活発化し、戦略的に産学連携やベンチャー育成を推し進めた。その結果、90年代に入り、ウォール街は世界の金融市場の頂点に立ち、シリコンバレーを始めとする新興のハイテクベンチャー企業が世界を席巻するに至った。
ベンチャーの隆盛は雇用環境にも大きな変革をもたらした。80年代以降、フォーチュン500に登場してくるような大企業は500万人以上人員を削減し、公務員の数も大幅に減少しているにもかかわらず、新たに3500万人の雇用が創出され、日米の失業率は逆転するほどになった。この合計4000万人の雇用を創出したのは、大企業でも公的部門でもなく、中小企業、いいかえればベンチャービジネスであり、いかにベンチャー企業がアメリカの復活に与えた影響が大きかったかがわかる。このようなベンチャー企業の隆盛の背景には、政策的な起業環境の創出、そして産学連携による学にある知の実業における活用、これを金融面で支えたベンチャーキャピタルの活躍やナスダック等の新興企業向け市場の活性化などがある。
ひるがえって日本を見れば、80年代のアメリカ同様、戦後日本の発展を支えてきた経済構造は大幅な転換を余儀なくされ、従来経済の牽引役であった大企業は今後の日本の成長の牽引役を果たすどころか、雇用面でも心理面でもマイナスの側面しか持たなくなっている。我が国においても、この閉塞した状況を打開するためにはイノベーションとチャレンジ精神に溢れた起業家の増加と、経済・雇用の牽引役であるベンチャー企業の活躍が望まれており、そのための環境整備として有効な起業家支援や産学連携の活性化が必須である。
ロンドンビジネススクールとバブソンカレッジの調査によれば、「21世紀の競争力は大企業や行政ではなく、起業家度の高さに比例して」いる。つまり起業家が多ければ多いほど経済成長率は高く、逆に起業家の数の少ない日本は経済成長率も低い(図表1参照)。

すなわち、地域や国における経済活性化のためには起業家度を高める、つまり起業家の活動を活発にすることが極めて重要なのである。一方、北海道は1997年の拓銀破綻を受けて深刻な金融危機に見舞われた。その打開策として全国に先駆けて起業環境の整備や産学連携、クラスター創出などの取り組みがなされた。そして地域におけるリスクキャピタルの供給機能を果たすべく我が国発の地域密着型ベンチャーキャピタルである北海道ベンチャーキャピタル鰍ェ設立され、投資育成業務のみならず地域におけるITやバイオといった先端産業のクラスター形成にも貢献している。加えて、起業家度を高めるため、インキュベータを開設し起業家支援を積極的に行っている。
そこで本稿ではアメリカ等における起業家支援や産学連携を考察した後、我が国における実証事例として筆者のいる北海道におけるベンチャー育成の取り組みとその課題について述べ、最後にベンチャー創出に向けての金融システムについて考察することにする。
上記で述べたように、1990年代におけるアメリカの復活は産学連携による新産業創出により実現したという見方が強い。つまり、大学における研究成果が民間で活用されることでイノベーションが加速し、ベンチャービジネスが続々誕生、これがアメリカの復活につながったというのである。これが昨今の我が国における産学連携推進の背景にある。
具体的な数字から産学連携の効果を推し量ることができる。図表2のとおり、1990年代の米国では大学における研究シーズをもとに28,000件の技術移転、2,200件の大学発ベンチャーの創業が行われており、Association of University Technology Managers=AUTM(米国大学技術管理者協会)の試算では、その経済効果は2000年1年間だけで8兆円、雇用効果は43万人にのぼっている(図表3)。大学からの技術移転は実際に米国経済の成長に寄与していることがわかる。経済政策の目標が経済効果、雇用効果であるとすれば、産学連携推進は政策として意味があるということになる。特に米国の産学連携は地域政策の一環としてなされていることが多く、ノースカロライナ、テキサス州オースチン、シリコンバレー、北部バージニアやメリーランドでは地域経済に大きく貢献している。
図表2 米国における大学からの技術移転とベンチャー設立(1990-2000)

図表3 産学連携の経済効果−日米比較
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米国の産学連携の契機は、1980年にバイドール法が成立し、国費による研究成果の民間移転が認められたことによる。80年代に入り、政府の支援もあり大学・自治体等によるインキュベータ設立が相次ぐ。80年代後半には大学の技術移転機関(Technology Licensing Organization=TLO、以下TLOという)活動の活発化がみられ、起業家育成施設であるインキュベータが単なる場所貸しから「企業・事業を育てるためのプログラム」に変容を始める。一方、忘れてはならないのがその当時の米国経済は低迷気味で、大企業のリストラが強化され、大量の失業者が発生、産業競争力回復のための政策が本格化した時期であったことである。
図表4 米国におけるインキュベータの発展
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年代 |
インキュベータの状況 |
インキュベータを取り巻く環境 |
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1960-1980年代前半 |
インキュベータの数が非常に少ない(1980年で十数ヵ所のみ) リサーチパーク内の一部や閉鎖された工場を活用。市場より低い価格でのオフィス等の賃貸と最低限の共同サービス(受付、郵便取次ぎ等)のみ |
ベンチャー企業数が少ない 大学周辺にリサーチパークの整備が始まる 連邦政府によるインキュベータ支援開始 |
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1980年代後半 |
80年代後半以降インキュベータ数の増加、対象業種等の多様化 場所貸しから「企業・事業を育てるためのプログラム」への変容がはじまる(専門家によるコンサルティング等) |
特許等の技術移転促進政策(バイドール法)、大学のTLO活発化 大企業のリストラ強化、失業対策、産業競争力回復のための政策本格化 州政府等にインキュベータ支援本格化(政策の中心は雇用対策) |
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1990年代― |
数の急増(2000年時点で北米に約800-850箇所) 民間施設(For Profit)の増加 プログラム内容の充実(コーチング、ネットワーキング、資金調達支援等) サポートグループの充実 |
ITブーム、ベンチャーブーム、特許移転活発化、大学のベンチャー育成活発化、州政府等財政好転、株式・資本市場活況(政策の中心は、雇用対策から所得水準向上へシフト) |
出典:日本政策投資銀行ニューヨーク駐在員事務所資料
注:インキュベータとは本来孵化器という意味で、起業支援を目的として貸しオフィス・ラボ、会社設立や資金調達のアドバイスなどを提供する施設・サービスのことを言う。
近年、米国では、大手製薬企業等の合従連衡が進み、大手企業が基礎研究部門を徐々に縮小し応用部門に特化する一方で、技術のシーズは大学・研究機関やベンチャー企業に求めるようになっており、従来のR&D(研究開発)という概念からA&D(買収と開発)という考え方が強くなっており、大学や大学発ベンチャーが果たす役割は、一層増大している。
バイオの分野の例でいえば、大学からスピンアウトした研究者によるバイオベンチャーが大学のシーズと産業界のニーズをつなぐブリッジ役の機能を果たす。バイオベンチャーを設立した研究者がさらに別のベンチャーを起こしたり、大学に戻るなど人材の交流が盛んで、技術・情報の共有が進んでいることが強みとなっている。
産学連携が叫ばれている現在の我が国の置かれている状況が、1980年代の米国に酷似していることは興味深い。米国における産学連携や起業支援は競争力回復や雇用対策を主眼としていた。ちなみに、我が国においてTLO法が成立したのは1998年、国立大学教官による兼業が認められたのは2000年のことである。米国において全国的に産学連携の成果が現れてきたのは、90年代半ばであるといわれている。注1 注2 したがって、産学連携が経済的効果をもたらすようになるにはまだまだ時間がかかることを覚悟しなくてはならない。
注1:例えば、エール大学のライセンス収入は96年に5百万ドルであったものが、2000年には45百万ドルに増加するが、これに寄与しているのは1つのエイズ治療薬である。コロンビア大学のTLOの事例におけるライセンス収入では、2000年144百万ドルであるが、95年には30百万ドルだった。つまり、産学連携強化の取り組みが成果をあらわすまでには、10年近い歳月を要したのである。
注2 日本で最初の国立大学発ベンチャー(国立大学教官による取締役兼業のベンチャー企業)は北海道大学医学部教授らによる潟Wェネティックラボであり、2000年9月設立である。また大学発ベンチャーで最初に株式を公開したのは、2002年9月に東京証券取引所マザーズに上場した大阪大学発ベンチャーである潟AンジェスMGである。2000年以降、既に500社近い大学発ベンチャーが誕生し、2社が株式公開を行う等大学発ベンチャーの証券市場に与える影響も無視できない。
3.北海道のおかれている状況とベンチャー待望論
上記では米国における産学連携やベンチャー創出の取り組みについて述べた。そこでここからは我が国の事例の1つとして北海道における産学連携やベンチャー創出の取り組みについてみていくことにする。北海道では30年ほど前から札幌を中心にIT企業の集積がみられ、産学連携が自然発生的に行われ、数多くのベンチャーが誕生した。また2000年には我が国における国立大学発ベンチャー第1号である潟Wェネティックラボが北海道大学から誕生している。産業クラスター事業に全国で最初に取り組み、小樽商科大学がビジネス創造センターを全国で最初に設立するなど積極的に産学連携によるベンチャー創出に努めてきた。
さて、米国における産学連携の推進や起業環境の整備は経済政策上の必然に迫られたものであったが、北海道はそのような必然に迫られているのだろうか。ここではまず北海道の置かれている状況について簡単に述べることとする。
図表5 北海道と同規模の国々
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国名 |
面積(㎢) |
人口(万人) |
GDP成長率 |
GDP (億ドル) |
1人あたりGDP(ドル) |
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ノルウェー |
323,877 |
441 |
3.5%(2.3%*) |
1,455* |
34,815 |
|
日本 |
377,846 |
12,642*** |
-0.1%(-1.9%*) |
41,951 |
33,289 |
|
デンマーク |
43,077 |
528 |
3.3% |
1,748* |
32,179 |
|
シンガポール |
648 |
310 |
8.0%(1.5%*) |
963 |
30,936 |
|
北海道 |
83,451 |
553*** |
-1.8%(-1.5%*) |
1,671 |
30,059 |
|
スウェーデン |
449,964 |
885 |
1.8% |
2,288* |
25,746 |
|
香港 |
1,095 |
689 |
5.2%(-5.1%*) |
1,665* |
24,900* |
|
フィンランド |
338,145 |
514 |
6.0%(5.0%*) |
1,262* |
23,317 |
|
アイルランド |
70,284 |
366 |
9.8% |
823* |
21,104 |
|
台湾 |
36,000 |
2,178 |
6.8%(4.8%*) |
2,623* |
12,040* |
|
韓国 |
99,274 |
45,991 |
5.5% |
4,425 |
9,622 |
|
マレーシア |
329,758 |
2,220 |
7.7% |
928 |
4,284 |
|
タイ |
513,115 |
6,060 |
-0.4% |
1,539 |
2,458 |
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インドネシア |
1,919,317 |
20,139 |
4.7% |
2,146 |
1,089 |
北海道経済白書、日本貿易振興会資料、北海道財務局『北海道経済の概要』をもとに北海道ベンチャーキャピタル轄成
・ データは原則として1997年のデータを使用、ただし*は1998年、**は1996年、***は1999年。北海道の面積は北方領土を含む。
北海道は道内総生産が20兆円、日本の約4%の経済を占める。面積は日本全体の22%であり、九州と四国をあわせたよりも広い。この規模を他の国々と比べてみるとデンマークとほぼ同等、ITや産業クラスターのお手本であるフィンランドやノルウェー、またアジアではシンガポール、香港、タイ、マレーシアなどよりも大きな経済規模を持っており、面積ではデンマークの倍、人口はほぼ同じである。つまり北海道1つで国として十分他国と伍していけるだけの経済規模、人口、面積、教育水準、インフラを備えている。いわゆるプロサッカーリーグのJ1には入れないがJ2では十分勝負できるレベルにあるといえる。日本の中だけでみてみると、北海道はまだ遅れていて「開発」という名目の公共事業が必要だというイメージがあるが、あたかも独立国のように戦略的に21世紀をリードしていくという視点を持って地域戦略を展開していくようになれば、斬新な取り組みに起業家精神を持った人材も集まり、ベンチャー風土も培われるようになる。
とはいえ、北欧やアジアの国々を凌ぐという経済もGDPの13%、2.7兆円もの域際収支の赤字(国でいう場合の貿易赤字)を抱えている。アメリカの場合、貿易赤字を国外からの資本流入で埋めているが、北海道の場合はこれを中央政府からの資金(地方交付税や開発予算等)が埋めている。一方、国からの資金の財源は主に国による借金となっており、日本の国債格付け低下(G7で最低レベル)を考えると今後、中央政府の借金に依存した資金繰りは早晩不可能となる。つまり否応無しに地域経済の独立・自立が求められており、早期に「利益誘導型」の経済や政治から脱却しないと将来は危うい。
このような状況を打破していくためには付加価値創造型の経済を創ること、すなわち地域の競争力を高めること、特に「外貨」を稼ぐ産業を早急に育成することが必須である。ちなみに、筆者は「外貨」を稼ぐ産業として
1. 財・サービスを道外で売る
2. 道内における消費を促進する(観光等)
3. 投資という形で企業・資産等への投資を促す
4. 道外企業による北海道進出に対抗できる企業を育てる(サービス業等)
等をあげている。その中でも単なる工場誘致のような外来型のものではなく地域内に様々な産業が相互に補完しあってモノ・サービスを創り出して行く内発型成長モデルを想定している。北海道ベンチャーキャピタルもこうした企業を発掘・育成し、北海道をもっと元気にしようという理念で設立した。
これまでの北海道の経済構造は中央依存、利益誘導型には適していても今後指向すべき付加価値創造型にはなっていない。そこで起業家度を高め、数多くの付加価値創造型ベンチャー、特に外貨を稼ぐ企業の創出と成長並びに域外からの企業進出こそが地域経済の自立には不可欠である。
上記のように中央依存度が高い北海道経済を付加価値創造型・外貨獲得型の経済に変えること、その担い手である企業を発掘・育成することを目的として1999年に独立系のベンチャーキャピタルとして北海道ベンチャーキャピタルを設立した。地域の経済政策、産学連携と協働する形で独立系VCが活動している地域は日本では他に類を見ない。北海道ベンチャーキャピタル設立当時、北海道は1997年の拓銀破綻の後遺症により間接金融が機能麻痺に陥るとともに、直接金融を担うベンチャーキャピタルも拓銀キャピタルや山一ファイナンスが倒産、大手証券系VCの撤退や大幅縮小が相次ぎ、ベンチャーキャピタルが北海道から消えようとしているときであった。ちなみに同時期、仙台からは全VCが撤退している。地域における成長企業支援のために自らリスクキャピタル供給機能を創る必要があると実感したことも設立に至った理由である。
株主としては主に、筆者を含む発起人(個人)に加え、店頭公開・上場企業、道内の信用金庫、北海道銀行などである。本体ならびに下記の2本のファンドを通じて投資を行う一方、起業家度を高めることを目的としてSIZ(シーズ:札幌インキュベーション・ゾーン)というインキュベータの運営、起業セミナーの開催や起業マニュアル作成などを行っている。投資先の内、既に4社が株式公開を行っている。
現在2つのファンド(投資事業有限責任組合)を運営しており、1本目は主に北海道におけるアーリーステージを対象とした「ホワイトスノー第1号」ファンドであり、中小企業総合事業団、道内の銀行・信金、公開企業等から出資を受けている。当社は成長産業の育成に加え、域内資金の域内還流による地域の成長実現を理念の1つに掲げていることから、当社の株主ならびにファンド出資者には道内金融機関が多い。既に12社に投資を行っており、IT、バイオ、流通サービス等に投資している。2本目は大学・研究機関におけるバイオ関連の研究成果の事業化を目的とした「バイオ・シーズファンド」であり、(財)北海道中小企業総合支援センター、道外の金融機関、事業会社、政策投資銀行などから出資を受けている。こちらは道内の優れたバイオ関連企業や技術に対して出資するが、加えて道外の企業も対象としている。これは将来的に投資先企業が北海道に進出するなど経済的効果をもたらすことを意図したものであり、このお手本となっているのが投資先である海外ベンチャー企業の多くが自国進出を果たし、シンガポールによるバイオファンドである。
図表5 北海道VCが運営するSIZ(札幌インキュベーション・ゾーン)
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5.北海道における産学連携の新しい取り組み―「ITカロッツェリア構想」
北海道におけるIT産業の系譜は1976年北大工学部青木教授を中心としたマイコン研究会に遡る。この年はアップル創業の年であるとともに日本のマイコン元年でもあったが、この研究会からマイクロソフトとほぼ時期を同じくして日本初のbasicが生まれ、シャープ、NEC、富士通、ソニー等はパソコン参入に際し、札幌の開発企業をパートナーに選ぶに至る。これから4半世紀、デジタルセキュリティの概念を日本に持ち込み、携帯端末からウエブサイトへの接続を実現するなど札幌は常にITにおいて革新的な地位を占め、サッポロバレーとして全国的にも知名度が高まってきた。にもかかわらず、ビジネスモデル、マーケティング、マネジメント等の意識の欠如から企業規模としては大きなものとはならず、海の向こうで同時期にスタートしたアップルやマイクロソフトとは比べるべくもない結果となっている。
こうした反省からサッポロバレーのITの競争力を高めるべく、2002年度からスタートしたのが『札幌ITカロッツェリア構想プロジェクト』である。文部科学省による「知的クラスター創造事業」に札幌地域の提唱する「ITカロッツェリア構想」が選定された。文部科学省が提唱する「知的クラスター」は、大学や研究所の研究成果を活用し、地域の特色を活かした、いわばシリコンバレー的な地域産業を形成することを目的に想起された事業である。北海道は札幌市を中心とするサッポロバレーがもつITの要素技術と優れたデザインを融合させ最終製品のプロトタイプ製造拠点をつくる、というプロジェクトが高く評価されたのである。大量生産型の製造業は中国等には敵わない。しかし北イタリアでデザインされたアパレルが中国で生産される一方、富が北イタリアに蓄積される(これをカロッツェリアと呼ぶ)ように、デザイン、プロトタイプ製造拠点をつくることこそ、21世紀型「ものづくり」であり、現在下請けに甘んじているベンチャー企業群を、地域として上流工程に働き掛ける新たな枠組みへと構造転換を図る戦略論を展開している。ちなみに北海道ベンチャーキャピタル鰍ヘITカロッツェリア構想のモデル構築を担当している。
札幌の企業群には基盤設計に関しては世界の頂点ともいえる技術の集積がある。しかし、製品の企画、設計から製造までの全体を見た場合、基盤設計(組み込み系)のみに特化しており、位置付けとしては下請けと同等といわざるを得ない。これを数字を見ると、札幌のIT産業の売上げのうち、売り上げ高の分かっているプロダクト系は286億円、下請系に分類される受託系、入力系の合計は2,209億円と9割近くが下請けである。サッポロバレーと呼ばれる企業群も実はほとんどが下請けで生きており、単価が下がることにより中国をはじめとする単価の安い国や地域の台頭により市場を奪われかねない状況にある。
図表 6 知的クラスター創成事業とITカロッツェリアのイメージ

出典:北海道ベンチャーキャピタル(株)作成
図表7 札幌のIT産業の売上げ割合

出典:(株)データクラフト資料をもとに北海道ベンチャーキャピタル(株)作成
このような「基盤設計」などの組み込み技術に特化したまま、なおかつ下請けから脱却するには、組み込み技術に関する付加価値をを高めることによって、メーカーが製品を企画するシステムの段階に食い込むことである。しかしながら、札幌のIT関連の各企業が発注者の上流工程に直接働き掛けることは、各企業の規模や能力から見て現実的であるとはいえない。そこで、各企業が個々にではなくITカロッツェリアという仕組みを通じて上流工程に働き掛ける仕組みを作ることを提案するものである。この仕組み作りには道外、海外からの積極に人材や企業を集めていく。これをイメージしたものが図表8である。上流工程、つまり発注側企業の企画/設計段階に組み込むことの出来るユーザビリティ・ラボとプロジェクト・マネジメント組織があり、これを中心として、サッポロバレー周辺の企業、大学がITカロッツェリアのプレーヤーとして参加する構図である。
図表8 ITカロッツェリアの全体像(案)

出典:北海道ベンチャーキャピタル(株)作成。
ちなみに2002年12月に決定されたバイオテクノロジー戦略大綱において、北海道は近畿、関東と並び我が国における3大バイオクラスター形成促進地域として特記されており、我が国第1号である潟Wェネティックラボを皮切りに既に十数社のバイオベンチャーが設立されるなど活発な展開が見られる。北海道における産学連携はこのITとバイオを中心に展開していくことになる。しかしバイオにおいても上流工程に食い込むモデルは持っておらず、ITカロッツェリアのモデルが有効なものとなると思われる。
技術ベースのベンチャー企業は販路やマネジメントに問題があり、資金力が脆弱な場合が多い。これを解決するには個々の企業の底上げでは不十分であり、地域として大手企業の企画/設計段階から食い込むことのできるプロジェクト・マネジメント機能を持つこと、事業金融機能を強化することが必要であり、ITカロッツェリア構想は地域、大学、民間のコミットメントによりこうした問題点への解決策を提供するものである。
6 北海道における金融システムに関する考察
これまで不況からの脱出のためには産学連携やベンチャー創出が急務であり、そのための北海道における取り組みとして「ITカロッツェリア構想」を紹介した。ここでは最後に、実物経済と並び地域経済においても極めて重要な経済の血液とも言える金融について考察し、なぜ北海道拓殖銀行の破綻が道内企業に大きな影響を与えたか、そして今後ベンチャー創出に向けて必要とされる新たな金融システムについて考察する。
従来の日本の金融システムにおいては銀行が企業の資金調達において中心的な役割を果たしてきたため、企業に対するリスクキャピタル、すなわちエクィティの供給者を増やしていくという試みがあまりなされずにきた。しかしながらバブル崩壊後、保有資産価値が大幅に目減りする一方、負債残高は一向に減少しないという「バランシシート型不況」がもたらした銀行の信用力の低下、ひいては資金供給能力の低下は、新興企業に対するリスクキャピタル供給環境の整備を急務としており、こうした整備はベンチャー企業創出には不可欠である。地域においては資金調達の多様性が中央に比べ極端に劣るため、同様の環境整備の必要性は一層高く、その1つの方策として地域密着型ベンチャーキャピタルである北海道ベンチャーキャピタル鰍設立したことは既に述べた。
戦後の日本においては、金融機関と事業会社による株式持ち合いが進行し、銀行は融資を行うだけでなく、株主として事業会社の経営に関与するという「日本型ユニバーサル・バンキングシステム」が確立した。ユニバーサル・バンキングシステムというと、銀行、証券、保険といった各金融業務を兼業するシステムと捉える場合もあるが、ここでいうユニバーサル・バンキングシステムとは、「金融機関が事業会社に資本参加し経営に関与する形態」を指している。
このシステムの中では、独占禁止法により事業会社の株式保有を制限された銀行が、投資先に融資という形で資金を提供した。この融資は、借り換えがほぼ無制限に認められていたことを考えれば、実質的に優先株と同様のものであり、いわば「擬似エクィティ」と呼べるものであった。一方企業は、株主かつ借入先である銀行の株式を取得したため、企業にとって株主、借入先、投資先に同じ銀行が並ぶという「株式持ち合いのトライアングル」が形成されてきた。注3
以上のような状況にあっては、銀行からの融資は「疑似エクィティ」であり、銀行が磐石である限り企業の自己資本比率が低くても問題にならない。しかし、これではエクィティ、デットいずれの調達先も銀行に依存することになり(この状態が通常メインバンクシステムと呼ばれるものである)、リスク分散が図られず、企業財務ならびに経営としてはきわめて脆弱な状態であった。
「日本型ユニバーサル・バンキングシステム」においては、一度銀行ならびに金融システムがおかしくなれば、これに過度に依存している企業の経営も大きく打撃を受けかねないわけであるが、いみじくもバブル崩壊以降の金融危機がこのリスクを顕在化した。いいかえれば長引く構造不況の大きな原因は金融システムそのものにあったといえるのである。
北海道においても、地域の中核銀行である「北海道拓殖銀行」ならびに「北海道銀行」への依存度は極めて高かったため、1997年、北海道拓殖銀行の崩壊後、金融機能は麻痺状態に陥り、深刻な経済不況に突入したのは当然のことであった。またそれとほぼ軌を一にして、ベンチャーキャピタル投資も急速に冷え込んでいったのである。
ちなみに北海道経済産業局によれば、拓銀破綻により@大型倒産が頻発し、A拓銀関連だけでも4000億円の資産が紙屑になり、B拓銀がメインバンクであった中小企業の57%が「新規借入先からの早期償還要請」「決済資金の凍結」などの影響を受けた。また1996年以降、メインバンクを変更した中小企業の35%が拓銀破綻が理由と応えているが、この数字は全国平均の5%に比べ7倍にもなっており、拓銀破綻の影響の大ききさを物語っている。
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図表8 株主=借入先=投資先のトライアングルの脆弱性
拓銀ならびにカブトデコムは一緒に破綻=資金調達先の非分散=脆弱な経営
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金融制度改革を経て、銀行は実質的な企業の株主として「擬似エクィティ」を供給する立場を解消し、本来のデットを供給する商業銀行業務に回帰している。この過程では持ち合い株式の売却、擬似エクィティの回収・削減(すなわち貸出金の回収)、融資対象企業の選別強化等が行われ、企業による資金調達面では全面的にマイナスの行動をとる。これが銀行貸出残高の大幅減につながっているのである。こうした環境において、従来の日本の金融システムである「日本型ユニバーサル・バンキングシステム」において銀行が果たしてきたエクィティ供給(擬似エクイティも含む)の役割を、これからは投資家が果たさなければならなくなった。にもかかわらず、真のリスクキャピタルが循環する仕組みが機能しないことがわが国におけるベンチャー創出の大きな足かせになっているといえる。
北海道においても2001年7月、札幌証券取引所に新興成長企業向け市場であるアンビシャス市場がオープンし、また当社のような地域独立系のベンチャーキャピタルも誕生した。しかしアンビシャス市場に公開している企業はまだ1社のみであり、北海道ベンチャーキャピタル鰍フ規模もまだまだである。リスクキャピタル供給の主役としてビジネス・エンジェル、ベンチャーキャピタル、そして株式市場に参入する個人・法人の投資家が活動しやすいような環境整備を行うことが必要である。
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図表10 これからのデットとリスクキャピタルの供給者
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具体的には、北海道を金融特区とし、金融・証券取引に関する規制を緩和、北海道のオフショア化を通じて内外から投資顧問会社、銀行・証券会社・投資銀行を誘致することなどが考えられる。投資にかかる税金を下げ、投資資金の受入を目指すとともに域内のエンジェル投資活動を応援する。日本で一番東にある利点を活かし、北海道時間を導入、通常で1時間、サマータイムで2時間の時差を設けることで世界で一番早く開くマーケットという位置付けを確保する。また東京証券取引所の衛星市場的位置付けである札幌証券取引所は独自路線を打ち出し、海外取引所や電子証券市場等との提携、新興成長市場の整備(グリーンシート市場、私募債市場、債権流通市場等)などに取り組む必要がある。たとえばパチンコ店に対する上場基準の緩和などは新たな企業群を札幌に呼び寄せることになるだろう。
エジンバラ、モナコ、ボストンなど投資活動において重要な地方拠点は枚挙に暇がないが、日本にはそのような地方都市は存在しない。生活環境の良いところで投資を行いたいという需要も高いはずである。地域におけるベンチャー創出を目的としたリスクキャピタル供給機能の整備という観点で見てきたが、地域に新たな金融市場を創出することは同時に人も情報も金も集まり、大きなビジネスチャンスとなることも忘れてはならない。
最後に
本稿では、失われた20年に終止符を打つためには起業家度の向上が必要であり、そのために産学連携や地域戦略が求められていることを確認することができた。そして最後に必要な金融システムに関する提案を行った。北海道における金融システムの提案についてはまだ具体化の段階ではなく、今後まだまだ検討が加えられる必要もあり実現の目処は立っていないが、ベンチャー創出のための金融面における仕組み作りとして是非前向きに取り組んでいきたいと考えている。
注3:日本証券団体協議会『株式持ち合いの現状と課題』(1994年8月)によれば、戦後の日本における株式持ち合いの形成の背景は以下の通りである。
戦前、財閥家族・持株会社は財閥系企業の株式公開に際し、支配力低下を免れるために財閥家族・持株会社を核として、系列企業内部で相互に株式を持ち合った。一方戦後は、財閥解体、証券民主化の過程において、従業員等に株式が開放され、個人が証券市場に参加するようになり、昭和24年時点での個人株式保有比率は69%と非常に高くなった反面、法人株式保有比率は15%まで低下した。
しかし朝鮮戦争を契機とする経済回復の中で、メインバンクを中心とした財閥復活的な企業集団の再編が行なわれた。この期間、すなわち昭和20年代後半は戦後の<日本型ユニバーサル・バンキングシステム>の形成期、もっと一般的に言えば株式持ち合い形成期である。この間、独禁法の改正、増加した個人株主による株式売却(保有比率は53%に低下)、失権株式の引受、投機グループに対する防戦なども加わり、金融機関株式保有率は25年度末の13%から30年末には20%へと急増、法人株式保有比率も33%へと増加した。つまり、株式投資家の主体、すなわちリスクキャピタルの提供主体が金融機関となったのである。
これらの経緯において特記されるべきことは、事業会社の株式保有に対し金融機関が積極的に融資を行ったことである。金融機関は自らが投資を行うことで、リスクキャピタルの提供者となるだけでなく、事業会社がリスクキャピタルを提供する際にも、金融機関がその際の資金供給を行っていたということである。つまり、高度成長期の幕開けとなる昭和25年以降の企業の資金調達において、銀行はデットの提供者であるだけでなく、エクィティの提供者としても存在した。加えて、デットの供給は、借り換えが可能(つまり期限なし)で優先株の様な性格を持ち、投資先への増資の代替として行われていたと考えられることから、銀行によるデットの供給そのものが<擬似エクィティ>であったともいえるのではないだろうか。別の言い方をすれば、戦後<日本型ユニバーサル・バンキングシステム>において銀行を頂点とした企業集団が形成される過程において、銀行はデット・エクィティ両面から事業金融が機能する仕組みを作っていったのである。
こうした流れの背景には、資金供給源としての銀行が巨大である一方、証券市場の民主化において期待された個人が戦後の富の蓄積の欠如から証券市場を支えることができなかったため、我が国においては直接金融主体の金融システムをあきらめ、間接金融主体のシステムを構築せざるを得なかった。その中で、企業は金融機関との良好な関係を維持するため、また銀行は独自の企業グループを形成していくため、株式をお互いをつなぐ糸、いわば潤滑油として用いたのである。
その後、昭和30年から40年までは持ち合いの状況は停滞する。その理由は、20年代後半の持ち合いの進捗により企業にとっての安定株式保有状況(31年末の法人持株比率は37%)はまずまずのレベルに到達していたことに加え、高度成長期において企業の資金需要が急増し、メインバンクの融資だけでは足りずに証券市場を利用した資金調達が必要となったことによる。この際は従来と異なり、当時急成長していた証券投資信託が受け皿となり、資金の供給源となったことである(投信残高は30年の595億円から36年10,268億円に急増)。
ここで重要な点は、従来金融機関が主導的な役割を果たしていたリスクキャピタルの提供という役割を、漸く本来の証券市場の投資家層が果たすことが出来るようになったということである。このように証券投資信託の急成長に伴い、企業の資金調達における増資の比率も上昇(資金調達に占める増資の割合が22%に対し融資が69%、昭和36年)し、リスクキャピタルの供給の構図が塗り変わるかと思われた。しかしその矢先、39年から40年にかけておきた証券大不況により状況は一変する(日経平均は38年4月の1,634.37円から40年7月に1,020.49円まで暴落)。そこでこの市場対策の株式買上機関として設立された日本共同証券等が、投信解約等による売り圧力を吸収するため、市場から東証1部の時価5%相当にものぼる株式の買上を行ったが、結局この株式は漸次事業会社、金融法人に市場外で引き受けられることになったのである。
また昭和40年代に入り、資本自由化、商法改正等、持ち合いを促進する要因が重ななり、法人持ち株比率は大きく上昇(74年末の法人持株比率61%、金融機関持株比率34%)、リスクキャピタルの供給主体は、証券市場における一般投資家ではなく、金融機関ならびに事業会社の手に戻ってしまい、銀行が大株主、主要借入先、投資先のトライアングルの3頂点を占める、<日本型ユニバーサルバンキング>のシステムが確立していったのである。